2017年1月1日日曜日

明ける、それすなわち目出度い

こんばんは、たっちーです。

ありますか、計画性。
一般的には、結婚相手に求める条件で上位に入る資質ですが、言わずもがな私はほぼ持ち合わせておりません。
まあ人並みにあったならば、移住までの経緯の説明が難しいなあと思うことも、そもそも訪れたことすらない町へ協力隊として応募することもなかったでしょう。
だとすれば、「計画してなかったからこそ、楽しい今の生活があるのじゃ!」なんて開き直りも悪くない……?
男だったら、人生のテーマ曲はスーダラ節かしらん。


実験

大晦日。
激動の2016年を振り返るべき大事な一日であったにも関わらず、当のブログは中々に薄っぺらい内容となっている。
その一方でよく見ると、ブログのリニューアル云々、さも「そばの振る舞いで遅くなったから、明日頑張る☆」的な流れが作られているではないか。

元日ハ快晴ナリ

すわ、何事?
結局完徹したために些かボンヤリとした頭で知人宅を訪問し、須藤鮮魚店から仕入れたおせち兼皿鉢料理をつついていたが、ふと箸を止めてしまった。

昨日の私(註:ワタクシと読む)は、平時に輪をかけた無責任ぶりだったのではなかろうか。

提供:須藤鮮魚店

もっとも、今回で晴れて160回目の更新を迎えた本ブログには、我ながら多少のマンネリ感を覚えていたことは確かであり、斯様なことを口走ったに違いない。

困り果て、久々に顔を合わせた長兄にこの状況をボヤくと、「いっそ論文調に書いてみたらどうか」とこちらも大層向こう見ずな発言があった。

結果

しかしそれがいくら無責任な内容であったとしても、相談したからには提案を試すのがある種の礼儀だ、と無駄な律儀さを発揮し、この実験的な試みに至るのである。

小萩揚げ、その他と共に食す


さて、読者諸君。
これが果たして「論文調」として正しいか否かはさておき、いかがなものであろう。 

なお、小説家・森見登美彦氏はこれに近い文体を用いながらも、溢れるユーモアと生き生きとした描写、小気味良いテンポで読者を物語の中に引き込むという巧みな筆力で、私自身も彼を敬愛している。

後悔なきよう、糖分を摂取すべし

しかし当方は、(某・都の西北の大学といえど)その実態が不明確として名高い似非文学部を卒業し、これまで文章の鍛錬を積んできたわけでない、すなわちシロウトである。
シロウトが形ばかりを真似、「宿毛で大人買いされた美味なるケーキの数々を食し、至福であった」と日常の一場面を報告したところで、痛々しいに違いない。

その悲惨さたるや、いかにしておせちの販売ノルマを達成するかと足掻く、元日のコンビニエンスストアの店員と貼り紙に似たものがある。

あまりに切実な願いを前にすると
人は写真を撮るらしい

さらに、読みにくいことこの上ないであろう。
したがって、本「論文調」実験は今回限りとさせていただきたい。

何より、時間ばかりが無闇に過ぎていくこの執筆行為自体、私(註:くれぐれもワタシと読むべからず)への負担が大きいのである。
我が兄に対しては、アイディア提起への感謝と共に、本実験で受けた精神的苦痛についての不満を訴えるものとしたい。

元日に詣でたるや

午後から向かったは、全国的に有名となった某・ラーメンカワウソ氏がマスコットキャラクターを務める須崎市である。

浦ノ内という地域の道を湾添いに進んでいくと、道幅が狭くなる一方で交通量と人通りが急増するという、運転技術に定評のある私ならば立ち往生必至の状況に陥った。

道の一部が駐車場化

バックから待避、直進を幾度となく繰り返しながら行き違う車には、家族連れや中高年夫婦のみならず、どことなく満足げな表情のうら若き女子たちの姿が認められる。

鳥居は 計3基

彼らの、また我々の目的は言うまでもない、初詣である。
横浜にいた時分は、極度の寒がりかつ物臭な自分が、実家近くや鎌倉、東京の神社の長蛇の列に並ぼうという精神を持つはずもない。
閑散とする頃合いを見計らっているのだが、それすら忘れてしまい、早くて一月中旬以降、遅ければ月を跨いで参詣するのが恒例となっていた。

されど、ここ鳴無神社は実に「程良い」にぎわいというべきか、行列には及ばぬものの適度な参拝客数で、街の中心地から外れた神社としては盛況の部類に入ろう。

鳥居側に立つとこのような景色

また「土佐の宮島」という異名からも察せられる ように、海に向かって鳥居と本殿が配されているため、極めて風情のある空間なのだ。

なお前述したような乙女たちを惹きつける要因もまた、お察しのとおり、縁結のご利益で有名なパワースポットであるためという。

恋みくじ、とはしないところに
好感がもてる

元日におみくじを引くなど、どれほどぶりか見当もつかないなどと雑念にまみれながら引き当てたは、末吉であった。

自分はあやまちを犯している前提で
教えが始まるとは、此れ如何に

だが熟読すれば、実質的には限りなく凶寄りに近い末吉であると判明し、明るい話題には事欠いていた。
それゆえ、たちまち 鳥居の外へ出ておみくじを水に、もとい海に流し、なぐさみとばかりに御守りを購入した次第である。

なお、「恋愛・縁談」では「…互いにつとめ合えば後はよし」とあるが、肝心の”互い”が「待人:おそし」となっている以上、ここでいう”後”とはどれほど後のことであろうか、皆目見当がつかない。

いざ旅立ちの時

されど、あくまでみくじである。
良いところ、心しておくべきだと判断したところだけを自己判断で抽出して楽しむ、また「末吉、では末広がりか」と強引な楽観思考をトレー二ングする、さらにブログや会話のトピックにもできる、と考えればコストパフォーマンスの高い占いといえよう。

占いの結果でくよくよとするタイプではないことはご存知の通り、そのまま直行するは高知の空の玄関口である。

いざ、東京(正確には、東京を経由した横浜の奥地である)へ参らん。
実家では珍しく家族5人全員が揃うとのこと、おせち(のパーツ)及びそれ以外の各種料理をつつこうではないか。
むろん、土佐の土産をあれこれ仕入れることは忘れていない(喫茶店に携帯電話は忘れたが)。

お世話になります

以上、誰がどう見ても、かどうかは判然とせぬが、新年明けまして目出度い正月だったそうだ。

それでは。
(今回、高知ことばはあえて取り上げないものとする。理由は、この文体の執筆に全力を投じ、新たな語彙の収集と調査に手が回らなかったからに他ならない。)

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